某、変態友人と映画に行った。
時折、彼とは遊び、呑み、歌い、という関係。
その彼に言われた。
「灯里ちゃんは自分の欲求を満たして欲しい、より自分が使われる事で喜ぶタイプ。エゴマゾではないんだよね。」
「よくわからんけどさ、灯里ちゃんみたいなのを所謂、真正っていうんじゃないのかな?」
辞書的に言うと
[名・形動]真実で正しいこと。本物であること。「真正な(の)勇気」
どうやら私の変態性は真っ当に変態だと評されている。
それを暁さんに伝えると
なるほどな
使われることが快楽かと返ってくる。
そして
使うために一時間しかないが来いと言われたら?と、問われて
その時間の隙間、でも使いたいと思われたことが嬉しいそう、答える。
きっと一時間、だと口で抜くだけかもしれない。
それでも、灯里で抜きたいと思われる事が嬉しくなる。
なるほどな
使いたいとはしょっちゅう思ってるがな(笑)そう、返してもらって喜ぶ私に
まさに道具になるぞ?(笑)と、返信がくる。
それ、も暁さんの可愛がり方なら
私は幸せ。
そう、暁さんの可愛がり方の一つとしてお道具にしてくれるなら、それはそれで幸せなのだ。
誰でも使うわけじゃないからな
お前だから使うその一言で可愛がり方としてのお道具化、という感覚を肯定される。
可愛がり方、のバリエーションだと示して事実お道具になった私を可愛がってくれるなら
お道具の、私もなかなか素敵。
そんなホクホクした喜びを落としてくれたので、胸にぎゅうと抱えたのだった。
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