暁さんの事じゃない記事ですがふと雑感で
人生において
自分が墓に入ろうと許せない相手はいますか?
私はイエスだ。
許せない人は少なからず、いる。
私は私を軽んじる人を許さないし
私は私の大切な人を傷付ける人も許さない
比較的私は他人に容赦がないのだ。
故に付き合える人や付き合いが長く続いてる人も少ない。
長く続いてる友人は決して蔑ろにせず
厳しいことを言いつつも何かあれば手を貸すし
本気で相手が涙するときは共に泣くこともある。
だけれども裏切りは許さない
親しい人に
「灯里は怖いんだよ、本気で怒ったら最後なの。貴女は怒るまでに許して、愛して、正して、そうやってキチンと努力する人だけど…もし、それでも裏切られたら一切振り向かず切り捨てるから。」
事実、この友人と共通の友人だった20年来の友人は
私の大切な人を不用意に貶める行為を何度諌めても改めなかった。
結果、私は彼女を切り捨てて、その上で連絡先を抹消し一切の連絡を拒んだ。
彼女が亡くなったとしても葬儀にも行くつもりはない。
他にも様々な理由で私が墓場に入ろうが、相手が墓場に入ろうが許せない相手は存在する。
大なり小なり、生きていれば許せない人が居ていいと思う。
そしてそれを許さない権利は誰しも持ってるし
相手を嫌う権利も持っている。
ただ、この権利には義務がある。
自分が誰かに嫌われても許されなくても仕方ないと理解することと
許さなかった、嫌い続けた行為を後悔しない義務がある。
人生は不平等で理不尽だ
だから、いらぬ横槍も入る。
なによりその横槍が綺麗事やら正しそうに聞こえることも多い。
でも、その横槍を入れる相手は…許さないと覚悟するほどの憎しみを昇華してくれるのだろうか?
否である。
自身の抱える怒りや憎しみは、自分自身にしか解決できないのだ。
横槍を入れる人は、それを一緒に苦しんでくれるのか?
そうでないなら、ただ口当たりのいいことを言いたいだけの馬鹿だ。
そーいう事をアドバイスではなくクソバイスと言うのだ。
苦しみ惑った時は、苦しみ惑う自分を支えてくれる相手か、それを共にしてくれる相手の話だけ聞けばいいと思う。
それを共にせず、高みの見物をする阿呆はクソよりも役にたたないので捨ておけばいい。
許さない覚悟
これも一つの生き方だと思う。
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