機会があってとある話を読んだ。
そこには
私とは違う種類の女性
暁さんとは違う種類の男性
が、いた。
なんと言えば良いのだろう
その状況に「違和」を抱いてしまったら
この「状況」は「違う」のだ。
それをその二人で打開するのも
その状況を忌んで抜け出すのも過ちではない。
でも、一人で打開するのは違うのでは?
と感じてしまう。
「女」はオトコにマーキングをする生き物だ
「本能」で「女」は自分の「オトコ」に着いた羽虫を察する。
侮るなかれ女の第六感
仕草で、触り方で、ネクタイの一つで
それは明らかに察知出来てしまう
だから暁さんが私でもない奥方様でもない誰かを「抱いた」らきっと私は気づくと思う。
気付いたら私はそれを「嫌がる」権利を行使する
暁さんには「私だけを飼って」と伝えてるし
暁さんがそれを承知しているのだ
前提条件が覆された時に「嫌がる」権利を行使することは許されているはずだ。
そして、それに対して
「そんな面倒なことを言う女だと思わなかった」
と告げるオトコはそれだけのオトコだ。
その時心を絶望で潰しても私はそこから離れる。
「何のために」と思ったのなら思ったままを伝えないと
「正直」に生きるためにした行動が無駄になってしまうのではないかと危惧をしてしまう。
「失くすのが怖いから我慢しよう」は「正直」とは別の世界のものだと思うんだ。
よく、強いといわれるけれど私はちっとも強くない。
「失くす」事より「失くなってることに気づかない」なことが嫌いなだけだ。
「失くなってる」事に気づけたら取り戻せる可能性はあるけど
それにすら気づけなかったら取り返しがつかないじゃないか。
いつの間にか手の中にあったものが半分失くなるよりも
自覚して全て失くす方が私は私を許せるんだ。
いつの間にか失くす前に
前に踏み出す勇気が持てればいいなと思う。
「思った事」「気づいたこと」「知った事」を一度も相手に伝えてないなら
繋ぐ為の行為をしているとは思えないから。
蜘蛛の糸のような頼りのないものに変わったと「知ってしまったら」相手にそれを伝えるまで頼れないから。
どうか繋いで行く「行為を」して欲しいなと思う。
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